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白光真宏会 出版本部



立ち読み - 聖書講義

太初(はじめ)に言(ことぱ)あり
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そこで、こう考えればよいのです。現在、自分の上に暗黒(やみ)のような不幸な運命が蔽いかぶさっているとしたならば、それは自分が、自分の想念が、暗黒のほうに向いているからであり、思いきりよく光のほうに向きを変えれば、その運命の暗黒は消え去ってしまうということなのであります。
ぱっと光の方向に向きを変えることは、それまでの習慣でなかなかできにくいだろうから、少しづつ少しづつでもよいから、祈り心を出して、神のみ名を呼べばよいのです。神は愛なのだ、光なのだと、そうした想いにすがりつくとよいのです。
そうしているうちに、祈り心になれてきて、しだいに本格的な祈りになってくるのです。何事も一朝一夕でできるものではありません。この地球人類の暗黒想念は、どうしてなかなか厚い層をなしておりますので、ともすれば、その想念にさらわれそうになります。そういう時は、地球人類救済のために、十字架にかかったイエスのことを想ってみるとよいのです。
ああ、あんな苦しい想いをなさって、人類の原罪(仏教的にいえば無明)を消滅なさろうとして下さった方があったのだ、なあに、私たちのこれしきの苦しみ、と想ってみるのです。それとともに、神が人類救済のために幾多の聖者をこの地上界に遣わしておられる慈愛を想ってみることです。
何事も、遠い昔から、神の言(光)を言葉(業想念)として、この世で使った時からの波動の汚れに原因があるので、この波動の汚れを消し去ってしまうまで、この人類の苦悩はつづくのですが、神の言(ことば)によらずにできたものはない、という原理に従ってみますと、光のほかに実在するものはないことになるので、この世のいかなる暗黒想念も、神の言(ひびき)がゆきわたってゆけばなくなってしまうことになります。
そこで私は、すべての悪も不幸も災難も、消えてゆく姿として祈りの中に入れきってしまいなさい、と説いているのであります。
仏教では、すべての業(カルマ)は、無明(むみょう)から生れているというのです。無明とは明(あか)りが無いということです。明りが無いとは、光が無いということです。明りが無いところ、光のとどかないところが無明であり、暗黒(やみ)であって、そこからあらゆる悪や不幸や災難が生れてくるのであります。
これをいいかえますと、明りがさし、光がとどけば、無明がなくなる、無明がなくなれば、この世の業因縁は消え去り、神の子、仏子の人類世界が開けてくるということになるのです。


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