太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神と偕(とも)にあり、言(ことば)は神なりき。この言(ことば)は太初(はじめ)に神とともに在(あ)り。万(よろず)のものこれに由(よ)りて 成(な)り、成(な)りたる物に一つとして之(これ)によらで成(な)りたるはなし。之(これ)に生命(いのち)あり、この生命(いのち)は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る、而(しか)して暗黒(くらき)は之(これ)を悟(さと)らざりき。(ヨハネ伝第1章1ー5)
ヨハネ福音書の、他の伝記にみられぬ特色は、この章のはじめの光のことについての言葉であります。これは旧約の創世記(そうせいき)第一章の、
「元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまへり。地は定形(かたち)なく曠空(むなし)くして黒暗(やみ)淵(ふち)の面(おもて)にあり、神の霊、水の面を覆(おおい)たりき。神光あれと言(いい)たまひければ光ありき、神光を善(よし)と観たまへり、神光と暗(やみ)を分ちたまへり。神光を昼(ひる)と名(なづ)け暗(やみ)を夜と名(なづ)けたまえり、夕あり朝ありき是(これ)首(はじめ)の日なり」
とありますが、この言葉の調子と実によく似通ったいい方をしております。何か一貫したものを感じさせます。これはどういうことかと申しますと、二つの文章がともに霊感によって書かれたものだからなのです。他の伝記の文章はおおむね、実際にあったと思われるようなことや、イエスのいったり行なったりした言動を伝えているので、ヨハネの福音書が、他の伝記と異なった役目をしていることがよくわかります。
マルコ伝にしてもマタイ伝にしてもルカ伝にしても、いずれも普通の著述家というのではなく、霊感的な人たちの編集したものであろうとは思いますが、ヨハネ福音書には著(いちじる)しくその特徴が現われております。この福音書は、イエスに愛されていつも倶(とも)についていたヨハネのものであるという説と、他の長老のヨハネである、という説などがありますが、聖書とか仏典とかいうものは、何も何の誰々という個人の名が特に必要なのではなく、その内容を伝えるための神々のお計らいによるのでありますから、そういう穿鑿(せんさく)はどちらでもよいことです。
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