罪が離れてゆく
五井先生は『白光への道』の中で「悔改めと把われの相違」を説いておられます。
実例として、お釈迦さまとアングリマーラ(指鬘外道〈しまんげどう〉)のことをあげて、真に悔い改めたとき、その瞬間から、その過(あやま)ち罪はその人から離れてゆくのだ、と説いています。 「宗教的に、本体論的に考える」とおっしゃっています。
宗教的に本体論的に考えるということはどういうことなのかと言うと、普通一般の人が自己と思っているものは、真実の自己ではなく、自己の想念なのだということです。
肉体を自分と思い、想念を自分だと普通は思っています。 ところが人間の本体である自己、 真の自分というのは、想念ではなく、霊そのもの、神そのものというわけです。
「真実の自己には善も悪もない。すべて想念の中に善悪も、幸不幸もある」
指髪外道と呼ばれた殺人鬼も、悔い改めたその日から、お釈迦さまは仏弟子として、罪を犯した外道とは全然別の人格として認められていたのだ、と先生はおっしゃるのです。つまり「悔い改めたその瞬間、その罪はその人から離れて消えてゆく姿として、その人の本体から離れてゆくのです」とおっしゃるのです。
本当に悔い改めていない場合は、その間違った想念行為が、いつまでもその人の本体を包 んでいて、罪はその人から離れないことになるのだ、と言っています。
「本体から離れてゆくのである」という言葉が、私にはとても新鮮で、そして力ある言葉、心の闇を吹き消す光の言葉に感じられました。
悪かった、しまった、もう二度とこういうことはしまい、と心のなかで誓った瞬間、私の本体から罪は離れ、消えてゆくということです。最終的に自分の意識想念の中から、消滅、浄化させるために“消えてゆく姿”として、消えてゆこうとしている罪想念というものを、世界平和の祈りの中に投げ入れ、救世の大光明によってきれいに浄めてもらう、ということが私たちには必要です。 なぜかと言うと、消えてゆく姿!と言いながら、それにつかまって流されているからです。
世界平和の祈りの中に投げ入れ、 救世の大光明によって処理してもらうことによって、消えてゆくものは完全に本体から離れ、再び自分に戻ってくることはありません。
再び戻ってきた罪意識も、徹底的に世界平和の祈りの中に、 投げ入れつづける、ということをしていると、善も悪もない、いのちそのもの、光そのものの本体の自分が現われてくるのを、私たちは感じとることができるのであります。
業想念の分析をして、いちいち自分を咎め責めることが、これで消えていって、サッパリするわけです。
すべての苦悩は過去世の業想念が現われて消えてゆく姿、と割りきり、世界平和の祈りの中に投げ入れつづけることによって、原因はきれいに消えてゆくわけです。 そして自己の本体、善も悪もない神そのままの本体本心に、私たちは還れるわけです。悔い改めることが完全にできる、という道を五井先生はかく教えてくださったのでした。
「第5章 輪廻転生と本体論」より
(目次)
序 文
序 章 人類の大犠牲者
第1章 遠い星から来た者たち
第2章 ゆるしてくださるよ
第3章 食べることも神さまにまかせた
第4章 想いつづけに想う
第5章 輪廻転生と本体論
第6章 私を呼びなさい
第7章 悪がこの世にある理由
第8章 天意 不変
第9章 生ききることだ
第10章 人類を生み出した言葉の源
第11章 神界との約束 - 救世の大光明が輝くところ
第12章 自分をゆるし自分を愛す
終 章 神意識
あとがき
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