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白光真宏会 出版本部



立ち読み - 果因説 - 意識の転換で未来は変わる

神人と果因説の生き方
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科学と宗教の行き着く先は同じ
そもそも神とは何でしょうか。
昔から、人類は神を信じ、その存在を証明しようと躍起になってきました。
なぜ人類は、こんなにも神に憧れ、神に魅せられるのでしょうか。
それは、神の存在そのものが人類の生命の中に宿っているからです。
人類は、誰しもが意識を持っています。心を持っています。感情を持っています。思考を持っています。だが、神を自らの生命の中に宿していることに対しては、誰も気づきません。判ってはいないのです。
今日まで人類は、神秘なるものを内に見出さずして、外に向かって求めつづけてきました。宗教も科学も、外に外に、さらに外に向かって探求しつづけてきました。しかし、もっともっとさらに追究しつづけていくと、結局は内に到達してゆくものです。内なる宝庫に到達し、科学が求めつづけていたものと、宗教が探求しつづけていたものが一致するに至るのです。
科学も宗教も本来、人間が無限なる可能性を持っている事実に行き着くためのものです。そして人類は皆、すべての能力を初めから与えられていたことに気づくのです。

疑うことと信ずること
科学はあくまでも“証明”が本命です。人類のすべての内に無限なる可能性、無限なる能力が存在すると理論では突きとめても、現実にそれを証明することが出来ません。そのため、生涯をかけて証明してゆかなければなりません。
ところが宗教の道は、ただそれを“信ずる”ことのみで成り立つ世界です。科学の道のように、初めから物事を疑ってかかるものではないのです。
だがしかし、その疑いこそ、人類の進化、発展の原動力でもありました。科学の道を通して、究極的には、自らの存在そのものに行き着くのであるし、宗教の道を通してもまた、自らの存在そのものに日覚めてゆくのです。
どちらを行くのも、人間の自由です。それぞれ好きな道を選択できるように、各人に任されているのであります。
だがしかし、人類にとって“疑う”ことと“信ずる”ことのどちらが容易でしょうか。
圧倒的に、人類の多くは疑うことのほうを優先し、疑いなしに素直に信ずることは、なかなか出来にくいものです。
疑うことは、まず物事を否定してかかることであり、信ずることは、物事を積極的に受け入れてゆくことであります。ですが、ここでいう“信ずる”とは、無知ゆえに信ずるという意味ではなく、無限なる直観、叡智を通しての信への道を指しているのです。
二十世紀の人類の闘争、戦争、紛争、飢餓などの歴史は、すべてがこの疑いから生じ、発生してきています。
他の人種、民族の血を疑い、それぞれの神を疑い、能力を疑う。そしてさらに、自分自身に対しても疑いの目が向けられてゆく。自分の才能、能力、資質、性格、人柄、血統を疑う。
自分自身そのものを信ずることが出来ずに疑うことほど、惨めで酷なことはありません。自分自らを否定してしまうからです。
自分自身に向けて発せられる疑いは、次々と周りに影響を与え、周りを汚染してゆきます。両親や子ども、親戚、友人、知人、さらに民族、人種、国家へと広がってゆきます。
疑いこそ、暴力、闘争、紛争、戦争の原点です。
その反対に、“信”ほど素晴らしいものはありません。人間の不信、疑いを超えて、我々の内面の奥深くに平安、静けさ、平和、愛、安らぎの源があり、その源から幸せや感謝が溢れ出てくるのです。
自らが自らを信じられるからこそ、他を信じ、他を受け入れることが出来るのです。この自らが自らを信ずることが出来ることは、究極の醍醐味です。
私にとって、科学も宗教も共に、“人は常に、他に一切頼ることなく、縋ることなく、求めることなく、自らの内にある神、即ち無限なる能力をいかに引き出してゆくか”にあります。私は、この両面のバランスを考えながら、究極のところに導いてゆくのです。



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