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白光真宏会 出版本部



立ち読み - 神と人間

七、 私の祈念法(きねんほう)
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私の祈りは、愛の祈りである。智慧(ちえ)は愛のうちに含まれていると私は思っている。
ただし、愛とは情(じょう)ではないことを申し添えて置きたい。
情は愛から生まれたもので、愛情と一つに呼ばれているように、愛とは切っても切れぬ関係がある。そのため、仏教では、愛さえも業と呼んでいて、迷いの本体である、と説いている。そして神の愛を慈悲と呼んでいる。私が今まで愛と書いてきたのは、情(執着)ではなくて、英語でいうCharity・チャリティー(大慈悲心)のことである。しかし、愛は善で、情は悪である、と簡単に割り切ってもらっては困る。この現世では光に影が伴うように、愛には情がつきまとうのである。切りがたい情を涙を呑(の)んで断ち切ってゆくところに、人間の美しさがあり、愛の輝きがいやますのである。
情を簡単に切れることが、その人の冷酷性(れいこくせい)の現れであったりしたら、情に捉(とらわれやすい人よりなお悪いことになる
愛深い人が情に溺(おぼ)れぬように自重してゆく姿には、美があるもので、そうした人の動きの中に、神のこの現象界における生き方が示されているものと思われる。
私の祈りは、自分が相手と一体になって、相手を抱いたまま、神の世界に昇ってゆこうとする祈りである。
祈りとは、まず自分の心を空(から)っぼにすることである。それまでの自分をひとまず捨てて、神だけを自分の心に住まわせることである。
願いごとは、すべて後まわしにすることである。神だけを自己に住まわせれば、その人に必要な願いごとは、すべて叶うのである。
小我(しょうが)の祈りは、その人をますます小さくするだけで、なんの得にもなりはしない。
ただ、神だけを想うことである。愛だけを行ずることである。
愛は、時に峻厳(しゅんげん)を極める場合がある。しかし冷酷とは全然異なるものである。
愛は全体を生かすとともに、そのもの、そのことをも、真に生かすために、峻厳さを示すものであり、冷酷とは、自己や自己の周囲の利益のために、すべてを殺すものである。
愛の峻厳であるか、冷酷性からくる厳しさであるか、自己を省み、他を参考にしてよく自己の道標(みちしるべ)としなければならぬ。
愛の峻厳を装った冷酷、愛とも擬(まご)う情意(執着)、この二つの心を超えるためにこそ、人は神に祈り、神と一体にならねばならぬ。
私はそうした人間の深い問題を、根柢から知らせる役目を神から受け持たされているものと信じて、毎日、空即実相(くうそくじっそう)の祈りを、多くの人びととともに祈りつづけているのである。
(第七章 終わり)


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