ByakkoPress Logo JPN
other Chinese Portugu尽 Italiano Fran溝is Espa撲l Deutsch English Japanese

白光真宏会 出版本部



立ち読み - 神と人間

七、 私の祈念法(きねんほう)
Page: 2/4

人間の肉体は細胞組織でできていて、その細胞は陽子、電子の寄り集まったもので、それをさらに細かく分析すれば微粒子(びりゅうしとなり、その微粒子は光の粒だという。その粒も、もっと根本にゆけば、光の波動である、と科学者がいっているが、人間が真の精神統一に入ると、自分自身が、無限拡(むげんこう)の光であることがわかる。私の想念停止は、自我を脱却したということなので、そこに肉体という物質体が存在していようとも、それはただ光の媒介体(ばいかいたい)であるので、私と対座した人の業生の因縁体(幽体、肉体)に、本源の光が流れこむことになり、分霊にまつわる業因縁が浄(きよ)まってゆき、分霊の体が軽く清らかになってゆくので、度重(たびかさ)ねて私と対座すると、知らず知らずに安心立命の境地に近づいてゆくのである。
この黙想と同時または前後に、柏手(かしわで)を打つことが多い、これは、相手の因縁の波が多種多様であるので、種々なリズムで、その因縁の波の調しらべに合せて叩くのである。この柏手を打つことによって、光の波が、相手の業因の波のうねりの通りにうねって浄めてゆくのである。
いいかえれば、神の光波が、私の柏手のリズムを通して、私と対座している人の業因縁の波を洗い浄めてゆくのである。
その他に種々の印(いん)を結ぶ。これは、相手を統一させるためと、こちらの光の波長を相手の波長に合わせるためである。やさしくいえば、テレビのダイヤルを種々に切りかえるのと同じである。
この祈りは相手と向き合ってやったり、相手を後向きにさせて、祈ったりする。
前向きの時は、その人そのものの、過去世(かこせ)からの業因縁を浄めるのであり、後向きの場合は、その人にまつわる祖先や縁者(えんじゃ)の想念の浄めなのである。
また、私は人の運命の方向を指示し、好転せしめるように祈念する。
大体私は易者(えきしゃ)ではないので、人の運命の過去を当てたり、先を予見したり、性格を指摘したりすることを本願(ほんがん)としてはいない。
私の本願は、すべての人間に神の存在を知らせ、人間は業生(ごうしょう)でなく、光の子、神の子なのであることを知らせたいのだ。
どこまで悩んでも、いかに苦しんでも、救われぬのが人間である、という迷妄(めいもう)を覚(さま)させるために、私は働いているのである。であるから、ただたんに“おまえの運命はかくかくしかじかだから”と、その人の運命の悪さを指摘したり、“おまえの心が悪いから、おまえの病気や不幸はなおらない”というような指導のしかたはしないのである。
ただひたすら、その人の運命の好転を祈る愛念(あいねん)だけで、人に対しているのである。
人の名前を聞いても、その人と対座しても、私の心には、その人の性格や運命が、鏡のように写ってくる。何故写ってくるかというと、私の心に私自身の想念(おもい)がないから(私自身が空(くう)だから)相手の運命(潜在意識に録音されてある)がそのまま私の空の心に入ってくるのである。しかし、私は、その事柄をそのまま、その人に告げることはしない。そのまま告げても、その人の心を傷つけず、かえって勇気づける場合は別であるが、大体は勇気づけるような内容だけを話して、少しずつその人の誤れる習慣の心、いわゆる、悪想念の癖(くせ)を善い想念に変えるように指導してゆく。その間勿論私の祈念法をもって、祈念してやることは、いう迄もない。


次のページ >




立ち読みコーナー
他の本も、立ち読みできるものがあります。
リンクを集めたインデックスもご覧ください。

立ち読みインデックス




Copyright 白光出版 / Byakko Press プライバシーポリシー